戦後の歌謡曲
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「かえり船」 作詞:清水みのる 作曲:倉若晴生 (昭和21年)
ようやく終戦となり、引揚船が、敗戦という傷あとを乗せて、ぞくぞくと日本の各港へ帰ってきました。その各港で流れていたのがこの曲です。上陸した人々は、「この曲は、なんという曲ですか?」と訊いたと言います。長い戦争から終戦、そして不況の中で喰うものにも困った人たちは、心のよりどころを求めてレコ-ド店に殺到し、瞬く間に全国に広まる大ヒットとなりました。
この曲を歌った田端義夫は、大正8年1月1日、三重県松阪市に10人兄姉の9番目として生まれ、3歳の時に人力車夫の父を亡くし、貧困生活を強いられ、大正14年6歳の時に、母、一番下の姉と弟の4人で、丁稚奉公している兄がいる大阪鶴橋に逃げたのですが、その兄が行方をくらましたため借金取り立てに追われ、夜逃げの連続で、彼は尋常高等小学校に3年通っただけで、卒業できませんでした。
昭和7年13歳の時に、さらに夜逃げをして、名古屋の薬屋に丁稚奉公に出てから、菓子屋や鉄工所と職を変えて、必死で働いたといいます。仕事を終えると、いつも河原で歌の練習をしていたといいます。歌が彼の心を支えたのです。
そして昭和13年11月、名古屋で催された新愛知新聞(現・中日新聞社)、吉本興業主催の「ポリドール・アマチュア・コンテスト」に出場したところ、4000名近い参加者の中から競争に勝ち抜いて優勝しました。3日後に上京し、ポリドールレコードの歌手となり、昭和14年に「島の船唄」でデビューしました。
昭和15年には「別れ船」がヒットしましたが、出征兵士を送る歌としては感傷的であったため、「亡国の歌手」という烙印を押されてしまいました。「別れ船」で兵士を送りだしたという後悔から、戦後にバタやんは、無事生きて祖国日本に帰ってくる兵士たちに向けた曲を清水みのると倉若晴生に頼み作ってもらいました。それが、この「かえり船」です。
昭和21年にバタやんは大阪駅のプラットホームで復員列車が入ってきたとき、「かえり船」が流れ、復員者と家族とが抱き合って泣いていた光景を見て「歌手になって本当によかった」と言っています。平成12年に佐世保港内に「かえり船」の碑が建立されました。佐世保港は引揚者が139万6000余人も上陸したといわれています。